2015年7月10日
2015年4月25日午前11時56分、ネパールの首都カトマンズをマグニチュード7.8の地震が直撃。大型地震とその後も断続的に続く余震は、8,000人以上の死者を出し、広範囲にわたって建物が倒壊するなど、ネパールに多大な被害をもたらした。人口のおよそ半分が18歳未満の子どものネパールでは、深刻な被害と子どもたちへの影響が心配されている。
このネパールでの地震が起こったとき、真っ先に頭をよぎったのは、スミット君は大丈夫か?でした。彼は、昨年秋に行われたアジア高校生フォーラム(日高高校100周年事業)で来日していたネパール人で、その期間中、我が家にホームステイしていました。彼が心配?彼の家族が心配?彼の国が心配?と考えていたら、ネパール友の会(代表・桃木範子)で直接支援を行うという話を知り、今回のネパール訪問に同行させて頂くことになりました。私たち一行は6/27に出発し7/5に帰国しました。今回訪問での私のミッションは、まず、“スミット君に会う”二つ目に“スミット君の学校訪問をする”三つ目は“ネパールの現状視察と支援”でした。
私たちがカトマンズ・トリブバン国際空港到着後、すぐに出迎えてくれたのはスミット君親子でした。彼の笑顔を見た瞬間にあまりのうれしさで涙があふれました。無事であったこと、本当に再会できたこと、とてもうれしかったです。すぐさま彼のお父さんが、息子が日本でお世話になったから、今回は是非とも我が家に来て欲しいと言ってきました。私は、ホテルにチェックイン後、スミット君のお宅を訪問することにしました。彼の家はカトマンズ市内北部の住宅街でした。今回の地震では彼の家は無事で被害を受けていませんでした。しかし周辺では倒壊している建物もありました。私の家族からの手紙やお土産を持って行きました。2時間程度訪問させて頂き、ホテルに帰ろうとしましたが、今夜は一緒に食事もしたいし、是非ともうちに泊まって欲しいと彼のお父さんが言うので、私は彼の家に泊めてもらうことにしました。異国の地での初めてのお泊りでした。その日の夕食はネパールの家庭料理をごちそうになり、彼と色んな話をしました。
翌日、私は二つ目のミッションである学校訪問に行ってきました。(学校名はFluorescent Higher Secondary School)校長先生はじめ多くの方がお出迎えしてくれました。
この学校は、昨年のアジア高校生フォーラム(日高高校100周年事業)で来日していたスミット君とサンパダさんが在籍していた学校で、日高高校から預かった手紙を届けさせて頂きました。私個人でもボールペン500本とネパール友の会からノート500冊も一緒に届けさせて頂きました。
地震の時はちょうど土曜日で学校も休みだったので学校としては大きな混乱もなかったみたいですが、まだ余震が続いている状態なので安全確保のため屋外に仮校舎を建てそこで授業をしていました。授業の様子も見学させて頂きました。校長先生はじめ皆さんが、あなた方が私達の学校を訪問してくれて、とてもありがたい。うれしかったです。うれしくて、うれしくて、心からありがとうございました。皆さんによろしくお伝え下さいと仰っていました。サンパダさんもホストファミリーからのメッセージを見て感動し、また会いたいと涙を流していました。
学校訪問の後は気になっていた世界遺産の寺院や街並みを視察しました。ダルバール広場の寺院や旧王宮の建物は、想像以上に被害が大きく修復できるのだろうかというくらい壊滅しておりました。とりあえず仮補強をしてがれきを撤去しているところでした。
周辺の街中も倒壊した建物や倒壊寸前の建物も多くありました。私の印象では倒壊した建物は2割程度かなと感じてました。しかし、車で通りすぎるのと、実際に自分の足で歩いて回るのとで被害の感じ方が変わってきました。建物の形として残っているのですが、非常に危険な状態の建物がほとんどであることに気づきました。今回、案内してくれたラジャンさんの家もこの近くにあり、地震では倒壊していませんが、怖くてこの家にはもう住めないと仰ってました。そう考えるとカトマンズ市内の半分以上の建物が倒壊の危険がある建物かなと思います。そういった建物を今後どうするのかが課題になってきます。ラジャンさんの家もそのような建物が密集する中に有り、解体するにも解体できない状態であるそうです。そんな建物が街中に溢れれています。
翌日、私たちは、カトマンズから南西へ80kmほど離れたヘタウダって街へ行ってきました。 山の中のガタガタ道を延々と車を走らせること5時間。 以前はもっと道が悪く7時間ほどかかっていたらしい。私たちが訪れた施設は、障害者施設でかねてよりネパール友の会の桃木さんが支援していた施設です。
今回の地震で施設への影響がなかったということで安心しております。この施設のコイララさんは、無償で障害者の子ども達を預かっているそうです。コイララさんの他にボランティアスタッフ9名で30人の障害者をサポートしております。施設内でスタッフがハンドメイドのカバンを作るなどして施設の資金に充てています。
今回ネパール友の会から歯ブラシ100本と非常用電池、お手玉などを届けさせて頂きました。この施設には脚の不自由な子ども達もいて車椅子を必要としています。ネパール友の会で次回訪問の際に車椅子を数台届ける予定にしております。
私たち一行は一度カトマンズへ戻り、今度は、東へ車を走らせました。次なる目的地はドリケルです。ドリケルはネパール友の会の桃木さんが里親となって支援している子どもが住む町です。彼の家は、今回の地震で倒壊してしまったそうです。しかし本人は無事で元気な顔を見ることができました。
彼は現在8年生だそうです(ネパールでは10年生まであります)将来は、日本語学校へ行き日本語を勉強して里親である桃木さんに恩返しをしたいと語っていました。これから大変でしょうがしっかり勉強して頂きたいと思います。ドリケルの帰りに気になっていたチャリング村に立ち寄りました。以前より桃木さんたちがこの村の学校に支援しており、村長さんの息子さんとも知り合いでした。地震の後、連絡をするが、返事はなく安否が心配でした。立ち寄ってみると、村長さんの家は、倒壊していて、瓦礫の山となっていました。周辺の家も倒壊しており、近くの学校に仮住まいしておりました。家は倒壊してしまいましたが、彼らが無事でいることが確認でき安心しました。今回、この小学校に避難している彼らに私からはカップ麺を50個、桃木さんからは、カロリーメート20個と非常用電池をお届けさせて頂きました。
最終ミッションで私たちは、カトマンズで日本語学校をやっているラジェシ先生を訪ねました。彼は、いつも私たちの案内をしてくれているラジャンさんのお兄さんであります。彼は日本語によって自分の人生が変わったと話してました。だから日本語を忘れたくない、もっとみんなに日本語を勉強して欲しいとボランティアで日本語を教えていました。(教室を借りている家賃分だけ生徒さんから頂いています。もちろん他の先生方もボランティアで日本語を教えてました。)私たちは、彼に今回の地震に対し私たちができる支援はないかと相談しました。ちょうど彼の知り合いが住む村でほぼ全滅して困っているところがあるということで、彼の案内でカトマンズ市内から北へ10kmほどのダルマスタリ村へ連れて行ってもらいました。この村は約420世帯3500人が生活する村です。地震当時はちょうどお昼の時間帯であったため、みんなが避難することができたらしい。しかし15名の尊い命を亡くしている。この地震が夜中に起きていたらほぼ全員が亡くなっていてもおかしくないと言われていました。村の建物の9割近くが倒壊ないし形は残っても倒壊の危険のある建物で住めない状態になっています。
そんな中、この村の若者が1日でも早い復興を願い集まり瓦礫撤去に取組んだため、今回訪問では瓦礫はほぼほぼ片付いて仮設住宅で暮らす様子を見ることができました。仮設住宅とは言っても写真にある半円のトタン葺の小屋です。内部は何もなく土の上に敷物を敷いて寝ている状態。この村の若者たちは、すごく前向きで早く村の再建計画を立てて復興させたいと努力しておりました。今回、私は飛行機の荷物制限で少ししか持ってこれなかったが、軍手を12ダース(144組)届けさせて頂きました。少ないですがとお渡ししたが、量じゃない、ハートだよと言ってもらえ大変喜んでくれました。今、この村で必要なものを訪ねると、この生活も長期化するだろうから床に敷くシートや衣料品や毛布などの生活必需品が必要と仰ってました。また、ゴミが街に散乱するためゴミ箱も必要とのことです。今回の視察を受け次回ネパール友の会で訪問の際(12月頃)に生活に必要な物資を届ける予定です。今回、ネパールのほんの一部しか見れていないと思いますが、このような村が多くあると思うとやるせない気持ちでいっぱいです。
今回、私の身勝手でネパールに行かなきゃという思いでネパール訪問しましたが、この間の1週間、家族や会社、取引先の方々はじめいろんな人に迷惑をお掛けしたと思います。今回のネパール訪問が無駄にならないよう努めてまいります。そして、今回のネパール訪問で多くのネパールの方々にお世話になりました。ネパールの人はすごく親日的で優しく私たちに親切にして下さいました。本当にありがとうございました。皆さんに感謝です。